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はじめに
初めに、正直この記事に関しては、ブログに投稿するかしないかをめっちゃ迷いました。そもそも留学情報のブログを主に発信している中で、今回の記事は「留学情報」という意味では少しずれた記事になってしまうから、というのと、
きっと読む人によっては全然違う意見を持っていたり、賛否が分かれる話になるため、投稿するのに抵抗があった、というのもあります。それと、これを書くということは、自分の中にあった差別について認めるということでもあるので、それをオープンにするのが怖いという気持ちもあります。(この記事のせいで読者が減らないといいのですが、、、、(笑))
しかしながら、今まで2回ほど長期留学を経験してきた中で、留学する前と留学した後では、差別に対する自分なりの考えが変わりましたし、さらに1回目の留学の時と2回目の留学の時、そして日本に帰国した今と比べて、自分の中での意見は色々と変わってきた気がしています。
そして、これから留学を控えている皆さん、留学をしたいと考えている皆さん、あるいは今留学中の皆さん。日本を出たら、自分が人種差別を受ける当事者になるかもしれません。差別について留学前以上に考えることが増えるかもしれません。
留学情報、とは少し違いますが、個人的な経験を通して、差別について考えたこと、そして自らの無意識のバイアスについて気づいたこと、それを省みて今の考えに至った経緯などを少し書いてみようと思います。
差別は絶対になくしていくものだとは思ってはおりますが、差別については色々な意見があると思います。この記事に同感してほしいと思っているわけではなく、この記事が、留学を通して何かを経験した皆さん、何かを経験するかもしれない皆さんの、自分の意見を深めるきっかけになればいいなと思っています。
※この記事は、あくまで個人的の意見を書いたものです。
※記事の中で、「ヨーロッパの」「アジアの」という言葉が結構出てきますが、大陸を一括りにしたいわけではなく、人や場所の特定性を避けるために使ってます。
※以下の文章は常体(だ・である調)で書きます~。
差別について考えてみる
LinkedinだったかFacebookだったか忘れたけど、少し前に、ヨーロッパに住む韓国人が、アジア人差別について批判している記事を読んだ。現地で中国人に間違えられて、「見た目が東アジア人というだけで中国人と勝手に思い込むのは人種差別だ!」といった内容だった。
確かに、人の国籍やルーツ(さらに言えば性も)を勝手に決めこむのはよくないし、まずは思いこまずに聞いてみる、というのは大切だとは思う一方、この韓国人の体験談と怒りの記事を読んだ時、学部時代に留学していた時のことを思い出した。
当時私はベルギーに留学していて、旅先で「ニーハオ」と声をかけられたり、留学イベントで中国人と間違えられたりして、それが何度か続いたために不満が募ったことがある。「私は中国人じゃない!日本人だ!」と。
ある日そのことを兄に言ったら、「なぜ、中国人と間違えられることが嫌なのか。アニョハセヨと言われていたら同じように怒っていたか。」言われ、ハッとさせられた。同時に、自分の中に存在していた無意識のバイアスを垣間見たようで不快でたまらなかった。必死で弁明しようとして「でも」「そうだけど」とかなんとか言って色々理由を言ってみたが、否定しようととすればするほど、自分の中の差別を正当化しているようで辛かった。
もちろん、その当時はこの不快感の正体が自分の中に存在する差別のせいだとは気づききれなかった。というか、もしかしたら、「差別をされたと思った自分自身も無意識に差別を行っていたこと」を認めたくなかったのかもしれない。結局、この気持ちをなぜ理解してくれないんだ、と不満に思っただけだった。
でも、今振り返ってみて、当時の自分のイライラはきっと無意識のバイアスからくるものだったんじゃないかと思っている。
ーもしもニーハオではなくアニョハセヨと言われていたら?もしかしたらだけど、あそこまで怒ったかな?ー
ー韓国人に間違えられるのと中国人に間違えられるのとは、気持ち的に何か違うのかな?―
当時の自分に聞いてみれば、「いやでも」とかいう言葉が出てくる気がするけれど、当時の自分を振り返ってみた今では、「そうだね、もしかしたらそこまで怒っていなかったのかもね。」と答えると思う。
じゃあ、何故中国人に間違われると不快に思ってしまったのか、という所について。色々原因はあるかもしれないが、一つとして、日本社会が持っている中国へのイメージが、知らないうちに自分の中に沁みついてしまったからかもしれないと思っている。
この無意識のバイアスというのは、社会構造や環境が要因となることが多いと思っている。社会全体に根付いていて、特に問題視されてきていないからこそ、無意識的に差別的な行動を行ってしまっている、というのが厄介で、それに気づくこと、意識的に変えていくことが何よりも大切だと思っている。今回の私の場合も同じで、政治やメディアで取り上げられる中国への批判的なイメージが、知らないうちに自分の中にあったのかもしれない。
誤解しないでほしいが、私は中国や台湾の友人もいる。大学院で仲良くなった友人も何人かは中国人だ。皆とっても素敵な人だし大好きである。
だからこそ、当時の自分を振り返り、当時の自分の中に無意識のバイアスが存在していたことを認めないといけないと思うし、それは改められるべきものだとも思う。
今の自分なら、もしも中国人に間違えられたとしても、韓国人に間違えられたとしても、同じように「実は日本人だよ~」と怒らずに対応すると思う。そもそも、自分自身もフランス人とイギリス人を見分けろとか言われても間違えるかもしれないし、アジア圏じゃない人にとったら、外見が似通っている場合、アジア人の国籍を見分けるのは難しいんだろうな、という寛容的な気持ちで接することが出来ると思う。
もちろん、国籍は勝手に判断するのはやっぱりよくないし、まず相手に尋ねてみるのが一番と思うので、自分が接する時は気を付けようとおもうけど。
「差別」と「無意識のバイアス」について
差別は恣意的なものに対し、無意識のバイアスとは無意識であることが大分厄介である。
例えば、上記の経験の他に、明らかな差別にもあったことがある(幸いなことに数えるほどしかないが)。学部時代の留学中に、日本人の友人とオーストリアに旅行していた時、カップルが私たちの後をつけながら、にやにやした声で「ニーハオ」と繰り返し罵ってきたことがあった。他にも大学院留学中にスウェーデンのマルメに旅行したとき、ホテルのスタッフに不適切な対応をされたことがあった(これは後で文句を言ってオーナーにお金を返してもらったけど)。
私が経験した差別は他の人に比べたらそこまで大したものでもないかもしれないが、少なくとも今述べたものは明らかに故意的に行われた差別だと思っている。
そして、こういった明らかな差別は悲しいことに日本にも確実にある。人種的な差別というよりも、対外国人への差別が根強いように思う。「外国人お断り」のバーがあったりとか、外国人の受け入れを拒否しているマンションなんか本当にたくさんある。少なくともスウェーデンでは部屋探しの際、人種的理由で却下された経験はないので、これに関してはびっくりである。他にも、外国人だからという理由で警察官に目をつけられたりとか、日本人が当事者になっていないから気づきにくいだけで、実はたくさん存在していることを理解しなければならない。
一方、無意識のバイアスを受けた経験の一例でいえば、大学院の時の授業で、ヨーロッパ出身の先生が、同じヨーロッパ出身の生徒には話しかたりアイコンタクトを取るものの、なんとなく自分や他のアジア圏の生徒(中国人やインド人、バングラデシュ人がいた)は存在していないかのように接していると感じたことがあった。そして、なんとなくそのことに違和感を感じた記憶がある。
日本での無意識のバイアスでいえば、電車で外国人が座っている席の周りには誰も座ろうとしないとか、他の言語を話している人がいるとじっと見つめてしまうとか。逆に、お店でスタッフが外国人の客への接客やアイコンタクトを避けたがるとか(そして大抵日本人である私にしか話しかけないし、私の方しか見ない)。今ぱっと思いついたのを挙げてみたが、他にも挙げればきりがないだろう。
私はさっき大学院での授業で無意識の差別を感じたと伝えたし、居心地のいい授業だったとは言うつもりはないが、だからと言ってその先生を責めたいわけではない。文化的に似た者同士の方が話しかけやすいという心理はわかるし、文化的な衝突もなくて済むので、居心地がいいと感じる人に自然とアイコンタクトを多くとる心理もわかる。
私だって、全然文化の異なる友人と話すのはとても刺激的で色々なことを知れて楽しい反面、韓国出身や中国出身だという友人と東アジア文化の話をして盛り上がるのはまた別の居心地の良さがあった。
上手く言えないが、その無意識的な行動が許されるものかどうか、というのはまた別であるし、少しでも不快に思う人がいればその行動は改められるべきではあるとは思うものの、無意識のバイアスについて、自分もやってしまう可能性があるということを理解し、そのうえで相手の無意識の行動を判断すべきなのかなと思う。
つまり、他の国に人種差別が存在していることを理解すると同時に、日本にある人種差別についても理解すること。そして、他の国に存在する無意識のバイアスを理解すると同時に、日本に存在している無意識のバイアスにも同時に目を向けること。
自分の中にも無意識のバイアスがないか考えること。何かされた時に嫌と思ったら、なぜ嫌なのかを追求すること。そして、自分の無意識のバイアスに直面した時、それを認める勇気を持つこと。もし今読んでいる方の中で、同じようにもやもやしている方がいれば、どうか昔の私のように「でも」「だって」とかで否定しようとせずに、もう少し深くそのもやもやを追究してほしいと思う(決して心地のいい行為ではないけれど)。
さいごに
実は、私がこの記事を書くに思い至ったきっかけは、最近話題になった2024年アカデミー賞授賞式で、主演女優賞と助演男優賞を受賞したエマ・ストーンとロバート・ダウニーJr.のアジア人俳優/女優への対応が差別的だったという記事を読んだからだ。
(↓気になる人はこちらの記事を参考にしてください。)
この記事に関連して、SNSでも色々な記事を見かけた。「アジア人差別だ!」と非難する人もいれば、アジアの方の中でも「ちょっと言い過ぎでは?」と言っている人もいた。
ちなみに、少し話が脱線しますが、「The Zone of Interest」の映画を手掛けたユダヤ人のジョナサン・グレイザー監督のアカデミー賞のスピーチは、アメリカとイスラエルで大変な物議をかもしていますが、こちらもとても大事な記事だと思ううので、興味がある方は読んでみて下さい。→英語のThe Guardianの記事がこちら。
日本ではこのニュースはそこまで話題にはなっておらず、どちらかというと彼が受賞したことに焦点を当てられているのが面白いですね(多少は触れられているものの、大々的に書かれているものはない)。当たり前だけど、国が違えば取り上げる内容も違うというか。
この話が取り上げられること自体はものすごく大事なことだと個人的には思う。そのおかげで、私も改めて差別や無意識のバイアスについて色々考えさせられた。
先程も言ったように、無意識のバイアスについては、そんなつもりはなかったとしても、結果誰かを不快にしているのであれば、無意識に起こしてしまっていた行動について改めるべきだと思っている。つまり、今回のアカデミー賞の事件の場合は、アジア人であるミシェル・ヨーとキー・ホイ・クァンがどう思ったのかが重要なのではないかと思う。
6年前の自分なら、このニュースを読んで、「これは差別だ!」と一緒になってきっと怒っていたかもしれない。でも、自分の中にある無意識のバイアスに気づいた今、なんとなくもう少し広い視点で物事を見れている気がする。これもまた上手く言葉で言い表せないのだけど。きっと、無意識のバイアスについて気づくことがどれだけ難しいことか気づいたからかもしれない。
批判的な意見を持つと同時に寛容性も持つこと。その大切さを一連の内省の中で学んだ気がする。
※今回の記事は人種的な差別について取り上げていますが、この世の中にはジェンダーの差別、性的マイノリティの差別、本当に色々な差別があると思いますし、それぞれにやっぱり無意識のバイアスが潜んでいます。同じように自分に潜む無意識のバイアスに気づき、もっとよりよい世の中にしていきたいですね。